第12章 医療保険 - 財政連邦主義の終焉

新川 敏光 (北海道大学教授)

1 国民統合の象徴としての医療保障

比較福祉国家研究において、カナダはアメリカとともに残滓的福祉国家、あるいは自由主義的福祉国家として分類されることが多い。すなわち公的社会保障・福祉制度の発展度が低い国と考えられている。こうした分類は、年金その他の所得維持政策や社会福祉サービスの特徴をよく捉えたものではあるが、医療保険に関してはまったく当てはまらない。アメリカが貧困者、老齢者を例外として公的医療保障制度をもたず、民間保険からこぼれ落ちる多くの層(4000万人に上るといわれる)を抱えているのに対して、カナダは1971年までには全州均質的な公的病院・医療保険制度を導入し、「国民皆保険」体制を確立している。

政治、経済、文化、あらゆる面で強大な隣国、アメリカの影響に晒され、「アメリカとの違い」を問うことがひとつの学問的ディスコースとして確立しているカナダにとって、医療保障はケベックとともに、アメリカから自国を分かつものであるといわれる。いうまでもなくケベックが他方ではカナダの国民統合を脅かすやっかいな存在であるのに対して、医療保障は、国民統合の象徴として掛け値なしの国民的信頼と支持を得てきた。連邦国家のなかでもとくに分権的といわれるカナダにおいて、とりわけ州の専属的権限とみなされてきた保健医療分野における全国的な制度の発展は、単なる一政策レベルを超えたカナダ連邦主義の輝かしい成果と考えられてきたのである。

カナダにおいて所得維持政策が自由主義的であるにもかかわらず、医療サービスにおいて普遍的保障制度が導入された背景には、独特の連邦−州関係や社会民主主義政党の存在がある。すなわち保健医療は州の専属的権限とみなされていたために、社会民主主義勢力の強い州ではこの分野における「先行実験」を試みることが可能になった。こうした先行実験の成功に押される形で連邦は医療保険の全国化に乗り出すが、その際連邦には州権を侵害することなく州の政策に影響を与える「魔法の杖」があった。支出権限(spending power)と呼ばれるものがそれで、連邦政府は州の管轄事項に関しても支出する一般的権限が認められている。連邦は一定の基準を満たした州の医療保険に財政補助を行うことによって、制度の同質性・同等性を確保してきた。したがって厳密にいえばカナダには全国的制度は存在せず、州営の医療保険が連邦支出権によって同質・同等の給付サービスを維持しているにすぎない。これが先に国民皆保険に括弧を付したひとつの理由である。

ところでこうした連邦支出権による制度の同質性・同等性の保証は、今日大きな試練に晒されている。経済低成長、財政危機、医療コストの上昇(病床・医師の供給過多、技術革新、高価な新薬、高齢化などさまざまな理由が指摘されている)を背景とした連邦の財政削減策が長期的に行われることによって、連邦の州保険制度へのコントロールが弱まり、医療コスト抑制に向けた各州独自の動きが目立ってきているのである。

2 連邦主義の台頭と医療保険の全国化

今世紀初頭のカナダにおいて、保健医療については、英領北アメリカ法92条に基づき、州立法府の専属的権限とみなされていた。連邦政府は「平和、秩序、よき統治」実現のための一般的(残余的)権限をもつと考えられていたが、これはあくまで明記された権限に対して二次的、補足的な権限にすぎないとされていた。したがって一般的権限に基づいて、連邦政府が保健医療分野に介入することは困難であった。

州レベルでの保健関連政策をみれば、産業化の進行に伴い、1915年にはオンタリオで勤労者傷害保険が導入されている。またサスカチュワン等の平原州では人口密度が低く、医療サービスの調達が困難であったために、医師の確保、医療施設運営の必要上地域医療ネットワークが早くから発達した。その他さまざまな先払い制度が地方政府、産業界、慈善集団等によって運営されていたが、連邦レベルでの医療保険を求める声が高まるのは、大恐慌後である。大恐慌後市町村の貧困救済費用が激増し、医師は未払い請求書を多く抱えることになった。事態がとりわけ深刻であったサスカチュワンでは、1932年12月州政府が救済委員会を通じて医師に補助金給付を行った。各州の健康保険導入に向けた動きのなかで特筆されるのは、ブリティッシュコロンビア(BC)における1936年健康保険法の制定であろう。もっとも産業界の反発があまりにも強く、同法は施行されずに終わってしまう。

1937年設立された連邦-州関係に関する王室委員会(ラウェル・シロア委員会)は1940年の報告において、年金・失業保険は連邦、保健・医療は州の管轄とするが、後者について州は連邦に権限移譲ができるとした。その後戦後再建の一環として連邦保健省は、ラウェル・シロア委員会が消極的であった連邦の財政補助を基盤にすえた州営健康保険構想を作成している(ヘガティ報告)。しかしどちらの案も、連邦への課税権の移譲が問題となって暗礁に乗り上げた。

しかし戦後間もない1947年サスカチュワン州は、単独で病院保険を導入する。当時サスカチュワン州の政権党は、1933年の「レジャイナ宣言」によって社会主義的志向を明らかにしていた協同連邦党(Cooperative Commonwealth Federation)であった。協同連邦党は連邦レベルでは自由党、進歩保守党の2大政党に大きく水をあけられていたが、サスカチュワンの「先行実験」はその後BC、アルバータに波及し、1949年連邦加盟を果たすニューファンドランドもまた州民の半数をカバーする公的病院保険(Cottage Hospital Insurance)をもっていたので、1950年までには公的病院保険をもつ州は10のうち4を数えた。

1955年には連邦レベルでの公的保険導入にとって最大の難関と目されていたオンタリオ州が柔軟化したため、翌56年自由党連邦政府は州に促される形で、病院保険(・診断サービス)法(Hospital Insurance and Diagnostic Services Act)を導入する。これによって、連邦は、普遍性、包括性、随伴性、非営利運営の4条件を満たす州の病院保険制度に対して、経費のほぼ半分を財政補助することになった。この特定補助金の算出は、

(<全国の平均1人当たり経費の25%>+<州の平均1人当たり経費の25%>)×<州の被保険者数>
に基づいて行われる。

全国的病院保険体制がほぼ確立した1959年、サスカチュワン協同連邦党政府は再び「実験」を敢行する。医師の診療サービスを対象とする医療保険制度の導入を決定したのである。州医師会のストライキを含む強硬な反対を押し切って、61年同制度は発足する。他方連邦レベルをみると、57年に政権から滑り落ちてきた自由党は61年になると全国的メディケア制度を提唱、保守政権に揺さぶりをかける。これに対して、医師会や保険業界の意向を汲む保守政権はメディケア導入に消極的であったが、王室委員会(ホール委員会)を設置することで批判の矛先をかわそうとする。しかし保守勢力の期待に反して、64年提出されたホール委員会報告は民間保険の限定性を指摘し、公的医療保険制度の導入を勧告するものであった。

1963年政権に返り咲いていた自由党は、この報告を受けてただちに作業を開始、65年7月には病院保険同様費用分担方式をもつ医療保険制度(Medical Care Insurance Program)を作成、公にする。66年同案を修正した医療法が制定され、68年7月1日をもって医療保険費用分担制度が発足した。当初から参加したのは進歩色の強いサスカチュワンとBCのみであったが、これは連邦が病院保険を発足させる際の条件であった「過半数の参加」を医療保険の場合には課さず、見切り発車したためである。これは、医療法に対しては自由診療原則の侵害であるとの医師会の反対が強く、しかも当時民間保険が発達してきていたため、多くの州では消極論が根強かったことへの配慮であった。しかし68年度内にニューファンドランド、ノバスコシア、マニトバが参加し、71年1月1日最後まで残ったニューブランズウィックも加入、全国的なメディケアシステムが確立する(2つの準州、北西領土とユーコンもそれぞれ71年4月1日と72年4月1日をもって加入)。

連邦補助の条件は病院保険の場合と同様であったが、費用分担については州ごとの調整が行われず、1人当たり全国平均コストの半分に被保険者数を乗じた額を各州は受け取ることになった。したがって物価水準の低い貧困州にとって、病院保険以上に有利な制度となっていた。2つの費用分担制度の再分配効果は大きく、オンタリオ、BC、アルバータといった富裕州では連邦補助が実際の支出の50%を下回るのに対して、貧しい大西洋沿岸州のなかにはコストの70%以上の補助を受けるところもあった。

州負担の財源は税方式が一般的であり、保険方式を採用する州は少数である。サスカチュワンとBCが先行的に病院保険を導入したときは保険方式がとられたが、BCは徴収上の困難から1954年には保険料を廃止し、代替措置として小売売上税を3%から5%に引き上げている。全国的な病院保険の導入に際して保険方式を採用したのは、オンタリオ、プリンスエドワードアイランド、マニトバだけであり、オンタリオ以外はBC同様やがて廃止している。医療保険導入の際には、サスカチュワンとオンタリオのほかに、アルバータとBC(+ユーコン準州)が保険方式を導入、もしくは再導入している。

このように保険方式を採用する州が少数派であることを考えると、カナダの医療保障制度を保険と呼ぶのは正確性に欠ける。しかしカナダでは財政方式にかかわらず、医療保険、もしくは健康保険(Medical Insurance, or Health Insurance)と呼ぶのが一般的であり、ここではこうした慣例に従う。これが最初に国民皆保険に括弧を付した第2の理由である。

3 矛盾のなかのカナダ医療制度 - 連邦主義と州権主義の相剋

カナダにおける皆保険制度は、特定州での実験が先行し、連邦政府が支出権をテコにこれを全国化するというパターンで発展した。しかし財政をテコとした連邦主義は、あくまで戦後経済の繁栄を前提にしたものであって、永続しうるものではなかった。財政連邦主義の見直しの必要性は、1970年カナダ経済協議会の年次報告『成長のパターン』において、すでに指摘されていた。同報告は、「1964年から69年までの過去5年間の上昇率が続けば、保健と高等教育のコストが2000年までには国民生産をすべて呑み込んでしまうだろう」と警告した。上限なしの費用分担方式への不安を募らせていた連邦政府は、1973年連邦支出をGNPの伸びと連動させることを提案するが、州側はこれを拒否する。翌年連邦政府はついに1976年度の医療経費増を1人当たり14.5%までに抑え、77年度は12%、78年度は8%にすること、さらに連邦-州間病院保健合意を5年の事前通告期間を経て1980年には終結する意向を一方的に通告した。

こうした連邦政府の強硬な態度によって、州側はいわば交渉の場に引きずり出される形になったが、州側としても従来の費用分担方式に満足していたわけではなかった。特定補助金の場合、制度運用への連邦の関与が強く、柔軟性に欠けるとの批判が強まっていた。結局貧困州(サスカチュワンおよび大西洋岸4州)の強い反対にもかかわらず、2つの医療関係保険と高等教育への青天井の費用分担制度が廃止され、連邦は個人所得税12.5ポイント、法人所得税1%を州に譲り渡し(従来の連邦補助額のほぼ半分に相当する)、さらに1975年度の上記3つの特定補助金総額の半分を従来通り現金移転することが決定された。現金移転の額は、以後直近3年間のGNP平均上昇率に合わせてスライドされる。さらに連邦は貧困州への妥協として、「歳入保証」として個人所得税で1ポイントの租税移転ともう1ポイントの現金移転を決定した。

1977年度から医療保険補助は、連邦-州間財政措置・制度財源調達法(Federal - Provincial Fiscal Arrangements and Established Programs Financing Act, 通称 EPF)に基づくブロック補助金へと転換した。これによって連邦は支出増加に一定の歯止めをかけ、予測可能性を高めることができるようになった。ちなみに1975年の医療支出の伸びが対前年比21%であったのに対して、1977年度は5.5%にまで抑えられている。他方各州は、連邦の厳しい監視体制から逃れ、運用の柔軟性を得た。またEPFの導入によって、病院保険の対象外である長期療養ケア(在宅ケアを含む)について、1人当たり20ドルの補助がなされることになった。この額はGNPの伸びと連動するが、医療保険の基準は適用されず、州は補助受け入れを決定し、情報提供を行うことが求められるにすぎない。しかしこれらのケアの大部分は従来カナダ社会扶助制度(Canada Assistance Plan, 通称 CAP)のもとで費用分担が行われていたものであった。

EPF の導入は連邦の財政緊縮策の一環であり、これによって医療分野における連邦主義の機能低下は必至と思われたが、導入直後には皮肉にも連邦主義の強化へと振り子が傾く。なぜなら EPF の導入によってカナダ・メディケアが侵食されるのではという不安が国民のあいだに広まり、連邦政府はこれを解消する必要に迫られたからである。医師以外の保健医療従事者や保健団体は、1979年11月にオタワで「メディケア SOS 集会」を開催し、連邦政府に圧力をかける。集会には約200万人を傘下に収める各州保健関係団体代表250人が集結した。

問題は2つに集約される。ひとつは、州が医療財源を他に流用しているのではないかという疑惑であり、いまひとつは EPF による財政締めつけによって患者負担が増加し、普遍主義原則が侵食されるのではないかという危惧である。実は患者負担は当初から認識されていた問題であったが、医療保険導入への医師の強い反対を和らげるために「皆保険体制」が制度的に放置した問題であった。実際のところ患者負担はごく限られたものであったため、問題はさほど深刻なものではなかった。ところが EPF の導入によって問題が俄に注目を浴びたため、連邦政府はこれに対して何らかの対応を迫られることになった。

1979年5月の総選挙で進歩保守党に思わぬ敗北を喫し、野に下っていた自由党は、こうした国民のメディケアへの不安感を最大限に利用する。前保健相モニク・ペジャンを先頭に、自由党は患者負担の全面禁止を打ち出し、80年2月の総選挙で政権に返り咲く。保守政権はわずか9ヶ月の短命に終わったため、保守政権が任命した特別調査官エメット・ホール(かつてホール委員会を率いた)は、自由党政府に報告書を提出することになった。報告書は、財源流用については、連邦政府が「歳入保証」分を EPF に含んで移転したために生じた誤解であることを明らかにしたが、患者負担については長期的には普遍主義原則を侵犯し、二階建て制度を生む恐れがあると警告した。

BC とケベックを除く州では医師による超過請求が原則として認められていた。しかし額でみて超過請求はカナダ全体の医師医療サービス支出のせいぜい1-2%程度にすぎなかった。1983年医師診療サービスの総額が50億ドル強であるのに対して、超過請求の合計額は7,000万ドルにすぎない。しかし問題は、超過請求が特定の州に偏っていたことである。ノバスコシアでは医師の53%が、アルバータでは47%(カルガリーでは60%を超える)が超過請求を行っていたのに対して、ニューファンドランド、プリンスエドワードアイランド、ニューブランズウィックではゼロに近かった。オンタリオでは超過請求をするためには保険医を辞退する必要があり、1970年代から80年代にかけて平均12-13%の医師が非保険医であるにすぎなかったが、その6割はトロント圏に集中していた。しかもオンタリオはカナダ最大かつ富裕な州であるため総額も大きく、83年の数字では4,900万ドル、すなわち額からみれば超過請求の7割までがオンタリオで行われていた。そのオンタリオで78年には非保険医が一時的に18%にまで増えたことが、国民のあいだに危機感を高めた大きな原因であった。

トルドー自由党の政権返り咲きで自らも保健相に復帰したべジャンは、患者負担の禁止に意欲を燃やす。こうしたべジャンへの追い風となったのが、各州の動きである。1983年3月アルバータ州は、保険料を45%引き上げるとともに入院についても1日20ドルの患者負担請求を認めるとの発表を行う。7月にはBCでも州所得税の8%引き上げ、病院利用料の1日7.5ドルから8.5ドルへの引き上げが決定する。さらに12月にはオンタリオ州の財務長官ラリー・グロスマン(進歩保守党)が超過請求擁護の論陣を張る。こうした動きは厳しい世論の批判に晒され、むしろ患者負担禁止への動きを加速することになった。世論に配慮した連邦進歩保守党は医師会の期待したようにべジャンの改革法案阻止に動かず、カナダ保健法(案)(Canada Health Act)は連邦議会を全会一致で通過、1984年7月1日施行の運びとなる。

カナダ保健法は、従来の病院保険と医療保険をひとつに統合し、病院保険以来の連邦補助条件を再確認し、病院利用料請求、医師の超過請求への罰則規定を設けた。すなわちこうした行為を承認する州に対して、連邦政府はそれと同額を現金移転から留保することができることになった。ただし同法施行後3年以内に患者負担を禁止するならば、それまでの留保額すべてが州に支払われることになっていた。超過請求の禁止は、オンタリオで1986年6月16日から25日間に及ぶ医師のストライキを引き起こすが州民の反応は厳しく、結局3年の経過措置期間内には全州が患者負担を禁止することになった。

1970-80年代のカナダ医療保障政策の展開からみて、EPFとカナダ保健法の導入が最大の改革であったことは衆目の一致するところであるが、2つの改革はともにトルドー自由党政権によって導入されたにもかかわらず、180度異なる性格をもっていた。EPF は連邦の医療保障制度における役割縮小、州権の拡大を示唆していたのに対して、カナダ保健法は連邦規制の強化を目指すものであった。この時期のカナダ・メディケアは、相反する2つのベクトルのあいだで揺れ動いていたといえよう。

4 カナダ保健法下のメディケア

カナダ保健法の導入によって、それまでメディケアの4原則(普遍性、包括性、随伴性、非営利)といわれたものに利用可能性が加わり、5原則といわれるようになった。利用可能性原則は、従来普遍性原則のなかに含まれていた「アクセスの保証」という考えが患者負担禁止の根拠として重視され、独立した基準として捉えられるようになったものである。以下各々の原則を簡単に説明する。

(1) 普遍性
医療法ではこの基準を満たすためには州民の95%以上の加入が必要とされたが、カナダ保健法では100%に引き上げられた。保険料の徴収は可能であるが、保険料の支払いがサービス適用の条件となってはならず、またリスクに基づく保険料の違いは認められない。このように同法は実質的に保険原則を否定し、保険方式の採用を抑制している。

(2) 利用可能性
カナダ保健法第12条第1項(a)において、「州の健康保険制度は、被保険者に金銭的負担を課したり、あるいは他の方法によって当該のサービスの利用可能性を損ねたり、排除したりせずに、保健サービスを同一の条件で、提供」されることを、利用可能性基準を充たす条件としている。この条件に反し、患者負担を行った場合、それに対してペナルティが科せられることは上述の通りである。

長期療養サービス(療養所における中間的ケア、在宅ケア等)については、そもそもカナダ保健法基準の適用外である。慢性疾患を扱う長期療法では、居住および食事等の賄い費用を請求することが一般的に認められ、年金受給者の場合は、「慰安金」分を残し、給付から請求額が差し引かれる。

(3) 包括性
州制度は「医学上必要なすべての」病院・治療サービスを対象とすることが求められる。ただし歯科治療、病院外での処方箋作成、公的制度が償還する基準を超えた国外での医療費、医師以外の医療技術者(例えば検眼士、自然療法士、指圧師)のサービス、および医学治療ではない美容整形のようなものは、連邦の「医学上必要」という定義からは除かれており、各州によって対応は異なる。

多くのカナダ国民は、職場、組合、専門集団ごとの民間保険に加入している。民間保険は公的保険との競合が禁じられており、後者が対象としないサービスに限って営業しうる。したがって当然州によって民間保険の対象は異なるが、代表的なものとしては病院の個室等の差額料金、リハビリ、歯科治療、個人付添看護、車いす等々があげられる。民間保険市場はこのように限られたものであるが、各州の保険対象の制限に伴って民間保険の活動範囲は拡大する傾向にある。1985年医療支出全体に占める民間支出は24%であったが、これが93年には28%にまで増えている。

(4) 随伴性
保険は州民がカナダ国内を移動中、もしくは旅行中、あるいは国外旅行中にも適用される。国外での保険適用については、当該人物が居住する州の給付水準に限定される。国内については、1988年州政府間で、各々の州民が他州で受けた医療サービスについて現地のレートで支払うことが合意されている。ケベックは、病院サービスについてはこれに同意したが、医師の治療行為については自州の料金表(他州に比べて低く設定されている)を用いている。ただし例外的に、連邦政府所在地オタワでケベック州民が医療サービスを受けた場合は、現地の料金表に基づく償還払いを行うことに同意している。

(5) 非営利運営
1966年の医療保険導入時には医師と民間保険会社の提携する先払い制度がある程度普及しており、営利運営も可能性としてなかったわけではないが、64年の保険サービスに関する王室委員会(ホール委員会)は、営利団体の運営は費用の高騰を招くとの理由から非営利運営原則の維持を強く主張し、現在に至るまで制度の運営は州政府もしくは州政府の監督下にある機関によって行われている。

付言すれば、カナダ医療保険に対して「医療の社会化」、「社会主義的医療」との批判がなされることがあるが、これは的はずれである。医師は通常自由診療に基づく出来高払いによって報酬を得る。しかも医師は保険医療を義務づけられているわけではない。非保険医として開業することは許されている。ただし非保険医の場合、保険機関への支払い請求は一切認められない。なお保険医の保険期間への支払い請求は、州レベルでの政府と医師会とのあいだで決定される料金表に基づいて行われる。

病院の場合は、特定サービスについて支払いを請求することはできない。各病院は州の関係機関との交渉によって決められた年間の一括予算に基づいて運営される。この予算は人件費やその他の運営費を賄うためのものであり、設備投資への補助は別枠となる。

5 分権的医療体制へ

1984年カナダ保健法は、財政をテコとした連邦主義による医療保障制度形成の到達点であった。しかしすでに EPF 導入時にみられた連邦の財政負担削減への動きは、医療費の恒常的伸び、長期的経済停滞、財政赤字によって、1980年代後半いっそう加速することになった。80年代中葉において、カナダの保健支出総額の対GDP比は8.5%であり、75年から1.4%増加していた。カナダはアメリカと比べてこそ70年代以降コスト抑制に成功したものの、他の先進諸国のあいだではもっとも高価な保健医療システムをもつ国であった。

経済成長率を見ると、1970-74年間の平均経済成長率(実質)5.2%に対して、1975-79年間は4.2%であり、1980-84年 にはさらに2.3%に低下している。とりわけ1982年にはマイナス3.2%に落ちこんでいる。EPF 導入のそもそものきっかけとなった財政赤字をみれば、カナダの財政収支は、1975年以来マイナスが続いていた。70年代後半の一般政府経常勘定のマイナスはGDPの2-3%であったが、80年代中葉には7%にまで上昇していた。

こうした背景下に連邦政府(進歩保守党)は、1986年度から EPF の伸びを人口1人当たりGNP伸び率の直近3ヵ年変動平均値マイナス2%とすることを決定した。90年2月には90/91年度分の EPF についてはGNPとの連動を凍結し、89年度と同水準とすることを決定した。その結果 EPF 保証額の変化は各州の人口変動、もしくは全国的に推定される人口の伸び率1%に限定されることになった。翌年には凍結を94年度まで継続することを決定した。95年度には凍結は解除されるものの、伸び率を人口1人当たりGNP成長率の3ヵ年変動平均値マイナス3%に制限することも併せて決定された。

ところで1993年11月総選挙では自由党が地滑り的勝利を収め、10年ぶりに政権に復帰したが、財政緊縮の基調に変化はなかった。93年度のカナダの一般政府経常勘定は、対GDP比で6%の赤字であり、G7のなかでイタリア(6.4%)、イギリス(5.9%)と並んで大きい。中央政府の赤字を比べると、カナダ連邦政府の赤字幅は、88年度対GDP比2.8%から93年度4.4%へと拡大し、イタリア(6.9%)、イギリス(4.7%)よりは小さいものの、アメリカ(4.2%)より大きくなっており、IMFから改善要求を受けていた。財政能力の減退のなかで、自由党政府がとりうる選択肢はきわめて限られていたといえよう。

1995年2月連邦政府は95年度予算を発表する。かねての方針通り、EPF について凍結解除と「GNPマイナス3%」の増加が認められる一方、次年度から公的扶助制度CAPを廃止し、これをEPFと統合するという案が盛り込まれた。すなわちCAPに関しても費用分担方式が廃止され、ブロック補助金への移行がなされることになった。新たに設けられたカナダ保健・社会移転(Canada Health and Social Transfer ・・・・・、通称CHST)のもとで、連邦からの移転総額はさらに削減される。95年度のEPFとCAPの移転は合計296億ドルであったが、96年度予算ではCHST総額は269億ドルに抑えられ、さらに97年度には251億ドルにまで削減されることになった。現金移転もこれに伴って95年度の186億ドルから96年度には149億ドル、97年度には125億ドルへと減額される。そして98年度から2002年度までは「CHST5ヵ年財政措置」が適用され、総移転額を98年度と99年度は97年度レベルと同額の251億ドルに抑え、2000-2002年度は各々GDP成長率マイナス2%、マイナス1.5%、マイナス1%の伸び率とすることが決定された。

連邦政府は、こうした財政移転削減がメディケア政策の方針転換を意味するものではないことを重ねて強調している。91年EPF凍結の延長を決定したC-20法案において、カナダ保健法に違反する州に対して連邦はいかなる分野の移転費であれ凍結できるとの条項を盛り込み、州の動きを牽制した。またCHSTの導入によって、カナダ保健法に基づき移転削減を命ずる連邦保健省の権限が変更を受けることはない点を確認し、超過請求、利用者負担に対しては断固たる措置をとると警告した。他方ではCHSTの急激な削減策によって、アルバータ、BC、オンタリオといった富裕州においてやがて現金移転がなくなるとの懸念に対して、98年度からの5ヵ年財政措置のあいだは最低110億ドルの現金移転を保証することを明らかにした。

しかしそもそも連邦のコントロールが限られるブロック補助金形態において現金移転額を減少させることは(州側は現金移転のみが連邦からの移転であるとの見解を示している)、必然的に連邦の州医療保障政策への影響力低下を招くと考えられる。各州における医療費削減の具体的展開を考察することは本章の課題ではないが、保険制度の基本的枠組みにかかわると思われる範囲で問題点を指摘しておく。

カナダ保健法の導入によって各州は患者負担を禁止したが、これによって問題がすべて解決したわけではなかった。カナダ保健法では提供されるサービスは、「医学上必要なサービスすべて」とされるが、どこまでが「医学上必要」なのかについては議論の余地がある。したがって超過請求禁止後も、医師のなかには患者ファイルの保管・移管、電話での処方などについて患者に直接請求を行うケースがあった。こうしたケースについては、連邦は州の指導を要請するわけであるが、州のなかには財政削減のなかで患者負担をむしろ支持する動きが生まれてきた。1992年までには、ケベック、アルバータ、ニューブランズウィック州が患者負担原則支持の意向を明らかにしている。ニューファンドランド州は普遍主義原則の維持そのものに疑問を呈している。

伝統的に市場志向の強いアルバータでは、1993年民間診療所の一部保険診療について施設使用料の名目で患者負担を課すことを認めた。同年総選挙で進歩保守党党首キム・キャンベルは、患者負担に理解を示したために世論の猛反発を食らう。進歩保守党の大敗による地滑り勝利で政権に返り咲いた自由党は、アルバータ州の患者負担を断固阻止する構えをとった。連邦政府の警告を無視するアルバータ州に対して、95年連邦政府はついに制裁措置を発動する。これに対してアルバータは訴訟方針を打ち出すが、結局96年7月1日をもって施設利用料請求を禁じる措置をとり、両者の争いは一応連邦勝利の形で終結した。

しかしアルバータの妥協は、連邦主義の再確認を意味するものではない。1995年ケベックを除く州保健大臣会議では連邦の保健分野からの完全撤退を求めている。アルバータの事例にみられるようなカナダ保健法への正面からの挑戦は例外的であるにせよ、州の裁量範囲で実質的にに患者負担を導入する州は増えている。もっとも単純な方法は、従来州独自の判断で保険内サービスとしていたものを保険適用外とすることである。児童歯科診療給付の廃止やその年齢制限の強化、検眼の適用除外・制限などが代表的な例である。

州の病院予算の削減に対応して、病院レベルでは病床削減、入院日数の短縮、外来治療の重点化、サービスの規格化等を行っているが、さらに一部のサービス(ごく稀なケースとして経営全般)の民間委託、急性病以外の患者の特別養護・長期療養所への移転といった措置がみられる。もっとも民間委託が行われやすいのは、食事、選択、掃除などであり、これらは「ホテル・サービス」と呼ばれている。「ホテル・サービス」と呼ぶことで「医学上の必要性」を否定し、患者負担を正当化する意図がある。特別養護・長期療養施設はカナダ保健法の基準適用を受けないので、これら施設に移された患者に対しては当然より広範な負担請求が可能となる。

このように連邦の財政移転削減に伴う各州の医療費抑制の動きは、カナダ保健法の保証する普遍性、利用可能性、包括性と抵触する危険性をはらんでいる。しかしながら他方今日の分権主義の台頭が、単なる支出削減にとどまらず「治療型から予防型」への保健システムの移行を目指すものである点も指摘しておく必要があろう。州から地方政府への権限移譲と参加型の地域保健ネットワーク形成の動きが連邦求心力低下のいまひとつの背景であることを考えれば、財政事情にかかわらずこの分野における連邦主義の衰退は不可避の流れであるように思われる。かつてはカナダ医療保険の全国化・普遍化を促すことになった州の自律性は、今日では制度の多様性を促す方向に作用しているといえよう(1998年1月脱稿)。

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