西暦 | 和 暦 | 天皇家 (御院政) | 鎌倉将軍 (執権) | 年齢 | ||
1173 | 承安 3 | 二条 (後白河) | 1 | この年、親鸞誕生(「本願寺通紀」に4月1日説) | ||
1175 | 安元 2 | 3 | 弟の朝麿が誕生 | |||
1176 | 安元 3 | 4 | 父、有範が他界。範綱の養子となる。 | |||
1177 | 治承 元 | 平清盛、後白河法皇の近臣らの反平氏クーデターを処罰(鹿が谷事件)。 源頼朝、北条政子と伊豆で結婚。 | ||||
1179 | 治承 3 | 平清盛が後白河法皇を幽閉 | ||||
1180 | 治承 4 | 安徳 (高倉) | 8 | 母、吉光の前が他界。 | 以仁王の令旨、諸国の源氏に伝えられる。以仁王討死。赤松[1]は、挙兵失敗が有範一族が悲境に追い込まれ、翌年の親鸞出家につながったと説明している(草野[2])。 源頼朝が挙兵。石橋山での敗戦。富士川の戦い。源義経参戦。 | |
1181 | 養和 元 | (後白河) | 9 | 春、養父であった藤原範綱(のりつな)に伴われて、慈円のもとで出家し、範宴と名乗る。この年、慈円僧正とともに、比叡山へ。授戒入壇の式。以後20年間、比叡山での修学に努めたと言われる(草野[2])。 | 後白河法皇が院政を再開。平清盛没。 | |
1182 | 寿永 元 | 10 | 東塔の無動寺へ。恵信尼誕生 | |||
1185 | 元暦 2 | 後鳥羽 | 壇ノ浦合戦。平氏滅亡。 頼朝の推挙により親幕派の九条兼実、摂政に任じられる。 | |||
1192 | 建久 3 | 源頼朝 | 後白河法皇没 源頼朝、征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府を開く | |||
1199 | 正治 元 | 土御門 (後鳥羽) | 源頼朝没 | |||
1200 | 正治 2 | 北条政子、栄西が寿福寺建立 | ||||
1201 | 建仁 元 | 29 | 比叡山をおりて、六角堂に参籠し、聖徳太子の夢告をえて法然の門に入る | |||
1202 | 建仁 2 | 源頼家 | 源頼家が征夷大将軍になる | |||
1203 | 建仁 3 | 源実朝 (時政) | 頼家が修善寺に幽閉され、実朝が征夷大将軍になる。時政が執権。 | |||
1204 | 元久 元 | 32 | 11月8日、法然の七箇条制戒に「僧綽空」と署名する | |||
1205 | 元久 2 | 須徳 | (義時) | 33 | 4月14日、法然から『選択本願念仏集』の書写と、法然の絵像の図画を許される 7月29日、法然より絵像に銘文を書いてもらう。綽空の名を改める。 | 時政、新将軍擁立に失敗して失脚。義時が執権。 |
1207 | 承元 元 | 35 | 専修念仏が停止され、親鸞は越後に流される | |||
1211 | 建暦 元 | 39 | 3月3日、親鸞の息信蓮房誕生 11月17日、流罪を許される | |||
1214 | 建保 2 | 42 | 上野佐貫で「三部経」千部読誦を発願するが、中止して常陸におもむく | |||
1219 | 承久 元 | 実朝が公暁に暗殺される。源氏将軍は断絶。藤原頼経(4歳)が鎌倉に下向。 | ||||
1221 | 承久 3 | 承久の乱。後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げるが失敗。 | ||||
1224 | 元仁 元 | 仲恭 後堀河 | (泰時) | 52 | 親鸞の娘覚信尼誕生 末法に入って683年と算定し、『教行信証』に記す | 北条義時没し、泰時が執権。 |
1225 | 嘉禄 元 | (後高倉) | 北条政子没。寿福寺に墓。 | |||
1226 | 嘉禄 2 | 頼経 | 藤原頼経が征夷大将軍になる。以後、摂家将軍(藤原将軍)と呼ばれる。 | |||
1231 | 寛喜 3 | 59 | 4月4日、昼ごろより発熱して床に伏し、4日後に「三部経」読誦の反省を恵信尼に告げる | |||
1232 | 貞永 2 | 四条 (後堀河) | 泰時、御成敗式目を制定 | |||
1235 | 嘉禎 元 | 63 | 親鸞の孫如信誕生(善鸞の息) この年の前後に帰洛する | |||
1238 | 暦仁 元 | 鎌倉大仏建立 | ||||
1239 | 延応 元 | 67 | 親鸞の孫覚恵誕生(覚信尼の息) | 後鳥羽上皇、隠岐で没。 | ||
1242 | 仁治 3 | 後嵯峨 | (経時) | 70 | 10月14日、定禅、親鸞の絵像を画く | 泰時没。経時が執権。 |
1243 | 寛元 元 | 71 | 12月21日、いや女譲状を書く | 経時が浄土宗総本山光明寺を創建。 | ||
1244 | 寛元 2 | 頼嗣 | 藤原頼経の子、頼嗣が征夷大将軍。 | |||
1246 | 寛元 4 | 後深草 (後嵯峨) | (時頼) | 北条時頼が執権。 | ||
1248 | 宝治 2 | 76 | 1月21日、『浄土和讃』と『高僧和讃』を著す | |||
1250 | 建長 2 | 78 | 10月16日、『唯信鈔文意』を著す | |||
1251 | 3 | 79 | 閏9月20日、書状により常陸の有年無念の論争を制止する | |||
1252 | 4 | 宗尊 | 80 | 2月24日、書状により関東の造悪無碍の風儀を制止する | 宗尊親王(10歳)、征夷大将軍。初の皇族将軍。 | |
1253 | 5 | 日蓮が鎌倉に移り、法華経を唱えるとともに、安国論寺、妙法寺を建立。 時頼が、禅宗の象徴、建長寺を建立。 | ||||
1254 | 6 | 82 | この年までに、善鸞を関東に下す | |||
1255 | 7 | 83 | 『尊号真像銘文』略本(6月2日)、『三経往生文類』(8月6日)、『愚禿鈔』(8月27日)、『皇太子聖徳奉讃』(11月晦日)などを著す 10月3日、性信に書状を送り笠間の念仏者の質問に答える 12月10日、火災にあう 十字名号本尊に銘を書く 法眼朝円、親鸞の絵像(安城御影)を画く | |||
1256 | 康元 元 | (長時) | 84 | 『入出二門偈』(3月23日)、『往相回向還相回向文類』(11月29日)などを著す 5月28日、越後の覚信尼に書状を書く 5月29日、子息の善鸞を義絶する 冬、関東の門弟真仏・顕智・専信らが親鸞を訪ね、顕智がしばらく逗留する | 時頼出家。北条長時が執権。 | |
1257 | 正嘉 元 | 85 | 「弥陀の本願信ずべし」以下の和讃の夢告をうける 『一念多念文意』(2月17日)、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』(2月30日)、『如来二種回向門』(3月21日)、『上宮太子御記』(5月11日)などを著す | |||
1258 | 2 | 86 | 『尊号真像銘文』広本(6月28日)、『正像末和讃』(9月24日)などを著す 12月14日、三条富小路の善法坊で顕智に「自然法爾」について語る | |||
1260 | 文応 元 | 88 | 12月2日、『弥陀如来名号徳』を著す | 日蓮が「立正安国論」を時頼に呈する。 | ||
1261 | 弘長 元 | 亀山 | 89 | 恵信尼病む | 幕府が日蓮を伊豆へ流す。 北条重時に招かれ、忍性が極楽寺を開山。律宗を普及。 | |
1262 | 2 | 90 | 11月28日、押小路南・万里小路東の住居で没す |